一発逆転の証券会社
京浜営業所は、当時のゲームのビッグスリー、T、S、Nを営業所のテリトリー内に持っていた。
営業所では、このビッグスリーとビジネスを大きくしようということで、それぞれの会社に一人ずつ担当を付けた。
K所長が言った。
「S、Sさんを、お前が担当してみろ」この一言で、Sは、S担当になった。
当時のSは石油メジャーの傘下にあって、労働争議がしばしば起きているような状況の時だった。
それまで、京浜営業所がどうやっても取引に応じなかった。
そこで、Sは、自分が担当だということで、「やるぞ」と思って、Sヘ通い始めたが、全然歯が立たなかった。
「お前、どこの会社だ?商社?商社はいらないから帰れ!うちはメーカーとしかやらないから、商社なんか帰れ」とけんもほろろの門前払いだった。
当時、Kという頑固で有名な購買係長がいて、その人が横柄な感じだった。
その上、全然相手にすらしてくれない。
Sは、一瞬暗稽たる気持ちに襲われた。
しかし、Sは、前向きな心に切り替えて、何としてもSを落とぎなければいけない、口座を開かなければいけないという一心で、Sに通った。
が、やはり誰も会ってくれず、道は開けなかった。
気持ちはいつも落ち込んだが、取り次いでくれる受付の女性は感じが良かったので、その人には感謝の気持ちで、チョコレートを持っていったり、アイスクリームを持っていったりしていた。
受付係の女性は、購買の女性も交代でやっていた。
「何かあったら連絡してよ」というような感じで、Sは明るく、その後もたまに顔を出していた。
ある日、「Kの部下である担当のTから、K電子さんが来たら通すように言われました」と受付嬢が言うので、何だろうと思いつつ、Tのところに行った。
「タンタルコンデンサーが足りない。
探してくれないか」というものだった。
その話を急ぎ持って帰って営業所で先輩たちに聞いたら、エルナーというメーカーと付き合っていて、「そこに聞いてみたら」とのアドバイス。
尋ねてみたら、そのコンデンサーがあった。
Sは喜び勇んで、「お求めのコンデンサーがありました」とTに伝えたら、「すぐ見積もれ」と返事が返ってきた。
Sはすぐさま、全部の量を見積もって、それを提出したところ、すぐ注文が来た。
待ちに待った、誰にもこじ開けられなかったSの門が開いた。
これがSとの取引のスタートになった。
この後、Kに会ったら「よくやったな」と目を細められ、いろいろ話をするうちに「今度これできる?」という形で、あのKから次の仕事の話をもらった。
ノーと言わないのがK電子。
Sは必死になってその部品を探して、それも見つけることができた。
すぐざまKに報告した。
「あっという間にSの売り上げがガーンと伸びた。
たまたまタイミングが良かったんですね」とSは言う。
しかし、この営業の手順や考え方は、Tの教えそのものだった。
「とにかくお客様のところへ行ったら、すべての人が大切なお客様。
暑ければアイスクリームを持っていくし、どこかでお菓子を買って持っていくなり、何かあったら手伝うなり、とにかくそういうように全部の人に気を使うことが大切だ。
その中から貴重な情報も聞けるかもしれない。
自分たちはそうして営業をやってきた」「どこかへ行くときには、感謝のしるしに、ちょっとした何かを持っていったりすることが大切だよ。
別にそんな高いものではなくていい。
そういうようにお世話になっているお客様に対して、気遣いをずっと続けてやれるかどうかが営業マンとして大切だよ」こういうことをSたちは、Tからずっと聞かざれてきていた。
無から有の縁を生む苦しみは、産みの苦しみ同様に大きいが、縁が生まれてからの喜びは、さらに大きい。
これが営業の醍醐味でもあり、縁の法則というものだ。
ここにもTの遺伝子をしっかり継承している男がいた。
1973年10月に起きた第一次オイルショックが、当時の世界をパニックに陥らせた。
石油の価格は急上昇し、石油が絶対的に不足しているというニュースが世界中を駆け巡った。
K電子飛躍伝説の第一は、CBトランシーバーという無線通信機のブームとともにある。
石油が不足し、価格が急上昇すると、仕事に影響するのは、車のドライバーだ。
特に広大なアメリカを走り回る長距離トラックのドライバーたちは、ガソリンを大量に使うために切実だった。
彼らは、全米各地の石油価格やガソリンスタンドの所在場所に関する情報を、先を争って入手したがった。
ここに、大きなニーズが生まれた。
このニーズに応えるべく、彼らの情報入手手段として登場したのが、CBトランシーバーだ。
便利だった。
アメリカ中のドライバーたちがCBトランシーバーを通して、ガソリン情報をやりとりした。
「どこどこのガソリンスタンドなら開いているよ」とか、「あそこのガソリンスタンドは、ガロン当たりいくらだよ」といった情報がCBトランシーバーを通して、アメリカ中のハイウェイを飛び交った。
CBトランシーバーは、作れば売れていった。
爆発的なブームが到来した。
このブームを支え、CBトランシーバーを供給していたのが、U、サイバネットエ業(後にKに合併)をはじめとした日本のメーカーで、その中心をなしていた。
メーカーは増産に次ぐ増産態勢を敷いた。
いくら作っても足りないといわれた。
K電子は、それらのメーカーにゲルマニウム・ダイオードや必要な部品を供給していた。
電子部品の便利屋として、70余のほとんどのCBトランシーバーメーカーと取引があった。
K電子は、それらのメーカーから矢のような注文を大量に受けた。
発注される部品の数は数十万個から百万個、時には数百万個という単位にまでのぼった。
中でも、一番の心臓部である水晶発振子のクリスタルが異常にかつ常に不足していた。
それからゲルマニウム・ダイオードを頼まれる。
マイカコンデンサー、セラミックコンデンサーまで足りなくなる。
もはや秋葉原の卸問屋や国内の供給先だけでは対応できない。
日本中の売ってくれそうなところを、片っ端からあたって、部品集めに朝から晩まで奔走しても足らなかった。
CBトランシーバーの部品は、納品しても納品しても不足するばかりだった。
「文字通り、砂漠に水のたとえ通り」の状況だったという。
Tが困ってM通商に相談したら「中国にいろんな部品があるよ」と言われた。
そこでTは、M通商と一緒に初めて北京へ飛んだ。
M通商は中国の友好商社で、商社をやりながら、カーステレオやカーラジオを作っていて、そこへK電子が電子部品を納めていた縁だった。
Tが、M通商と一緒に北京へ行った時に、電子工業部という部があり、そこの輸出入公司に商談に行き、当時CBトランシーバーに一番不足していた水晶発振子のクリスタルを契約した。
「中国にすれば非常に高価な商品で、当時一個百円で契約をして買い付けをしました」。
メインに売っていたゲルマニウム・ダイオードもマイカコンデンサー、セラミックコンデンサーも中国では生産していた。
それらも、商談が成立して輸入した。
当時は、コメコン(COMECONU旧ソ連や東欧などの社会主義国の経済相互援助会議、199一年解散)・ココム(COCOMU対共産圏輸出統制調整委員会、1994年解散)に関係するような国は、友好商社を経由しなければ、輸出入ができなかつTが、「お久しぶりです。
証券会社の一環として捉えましょう。証券会社のスタンダードです。
証券会社の必要性を考えます。証券会社のクチコミ情報を求めています。
仲間と一緒に証券会社がどんなものかご存知ですか?誰もが楽しめる証券会社です。
